葉巻人|竹中光毅

2016-12-30

西麻布のシガーバー「ハバナベガス」のオーナー、竹中光毅さんは日本でも数少ないシガーのプロフェッショナルだ。
ただ売るだけ、吸うだけではプロとはいえない。ひたすら深くシガーと向き合い、自分だけの答えをその中に見いだしたときから「スモーカー」は始まる。
その手伝いをしてくれるのがシガーのプロだ。そんな彼に、シガーについてを語っていただいた。

 

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きっかけは「名前を呼んでもらう」ため

僕がシガーを始めるきっかけは、2001年に銀座の老舗バー「銀座池田」に入ったことでした。
当時はバーテンダーひとりの枠に希望者が50人殺到するような、みんながすごく働いてみたい商売だったんです。だから、どこも空きはなくて今みたいに募集もめったに出ませんでした。
そのなかでも、やはり銀座は格が違いました。銀座池田は超高級店だったんですが、先輩方が当然、全員「プロフェッショナル」なんですよね。
例えばカクテルの上手な先輩、ワインがめちゃくちゃ詳しい先輩、ウイスキーが一番詳しい先輩、ウイスキーの中でもバーボンに特化した先輩、ブランデーに博識な先輩とか。全員がトップクラスの技術力と知識力でした。
その中で僕は、自分の居場所を作らないといけないわけです。お客さんに名前で呼んでもらうためには、店の中で何かのスペシャリストである必要がありました。「何々だったら竹中」と言ってもらえるように。
先輩たちは全員銀座で10年選手とか、そういう人ばかり。そうやって上を見渡して考えたときに、先輩たちの中で一番弱かったのがシガーだったんです。シガーのスペシャリストがいなかった。
「これはシガーだな」と思いました。当然僕もシガーというものに興味がありましたし、そこからシガーの道を突き進むことになりました。僕が二十代そこそこの頃ですね。

当時はどこのバーもお客さんで満席でした。忙しい店、暇な店があるわけではなく、全てのバーが満席でした。そして今みたいにシガーを吸う人が少なくなくて、もっといっぱいいました。
お客さんの数が違いますから、そんな中でシガーの担当になるというのはどういうことかというと……基本的にお客さんのシガーをカットして火をつけるのが仕事ですが、それだけで一日が終わるくらい数多く切りましたね(笑)。

シガーで、なぜスペシャルな人がいなかったのかというと、簡単にいえばシガーを売っても儲からないからです。たとえばバーボンだったら一杯売って、それでバーは売上が立つじゃないですか。
でもシガーというのは、正規ディストリビューターから買ったら立て替えにしかならない。
だから1円も儲からないものを一生懸命勉強する人がいなかったから、席が空いていたんです。
それが僕の、シガーをはじめるきっかけですかね。
まあこれは正確にはシガーを吸うきっかけというよりも、シガーを売るというか、シガーを「覚える」きっかけですね。

 

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常連であるハバナの名シガーショップ、コンデ・デ・ヴィジャヌエバ。

 

すべてをかけたシガーの修業時代。

シガーをめちゃくちゃに吸いはじめたきっかけは、銀座池田に入ってから3年後の2003年に、ダビドフを取り扱うブルーベルが「シガーサービスコンクール」をはじめたことですね。コンクールは第10回まで開催されました。
2004年、その第2回コンクール。僕はシガーを担当していたので、銀座池田の社長の奥様、マダムに出場したいと伝えました。
ただ、看板を背負っているバーというのは、こういうコンクールで記念受験は困るわけです。店の名に泥を塗るわけにはいかないから、結果を求められる。勝たなければいけない。
でも僕は当時小僧だったから、看板も薄かったわけです。銀座池田のチーフとか、マネージャーとか役職がついていたら絶対に負けるわけにはいきませんが、入ってまだ3年じゃ、店内でも外でも銀座池田のバーテンダーとは認められません。見習いみたいなもんです。
そういうことで、入ったばかりの見習いバーテンダーの子が挑戦するという名目なら出てもいいわよ、というふうにOKをもらえたんですね。

でも、僕も負けず嫌いだったから、出場してむざむざ負けるだけじゃ悔しいですし、シガーを猛勉強するわけです。
この大会、後々に簡略化されましたけれど、初期は設問も多かったし、出場するバーテンダーの数も多かった。その中でも参加者はホテルマンが大半で、銀座のバーテンダーは少しでした。
コンクール科目の中で、ブラインドテイスティングというのがあります。
それは5本のシガーが並べられて、5本のシガーを吸って全部当てなければいけないというものです。
今ではラッパーとビトラを見れば何となく絞れますけれど、始めたばかりのあの頃は、本当に見て、吸って、覚えるしかありません。なので、吸いまくりました。
そのころ僕の手取りは14万円くらいでしたけれど、そのほとんどをシガーに変えていましたね。
勉強のためにシガーを吸いまくりました。ブラインドで当てれば良いので、本当は全部吸う必要はないんですが、もったいないので買ったシガーは全部吸って覚えました。
ワインでいう横飲みは5・6種類並べて飲むことですが、違いを見極めるためにシガーを横吸いしてました。
あの頃はまだ、シガーも安かったですしね。コイーバのロブストが3000円いってませんでしたし、モンテクリストの4番が1100円とか。今では考えられないですねえ。

ブラインドには何でも出てくるわけですから、安いシガーからハバノスまであらゆるシガーを吸いました。火をつけるところから勉強ですし、ひとつも気が抜けません。
個人的に毎月大量にシガーを買っていたので、もう引退されましたけれど、ブルーベルの現場のトップだった石井さんという方に可愛がってもらいましたね。
「竹中君これ新作で入ってきたんだけれど、勉強で吸ってみな」みたいに。ダビドフからしたら先行投資ですよね。
そういうふうにある種の協賛をいただく事によって、僕が勉強すればシガーが売れることに繋がっていったんですよね。
まさにその4・5年後にダビドフからジノ・プラチナム・セプターが出たときに、「ちょっとお店でまとまった数字をやってくれないか」と言われるようになってましたから。
「じゃ10箱買いましょう」って。あの売りづらいシガー、ジノ・プラチナム・セプターを。チャビーとか、ローライダーとかです。
売れないシガーも売るので、そういうのがたくさん持って来られるわけですよ(笑)新作で出たデッドストック。なかなか売るのが難しいシガーがどんどん回ってきて、たくさん売りましたね(笑)。

 

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キューバの腕時計メーカー、クエルボ・イ・ソブリノス。キューバ限定の品。
ハバナベガスにはフィデル・カストロがモンカダ兵舎を襲撃した60周年記念ボトルや、25年もののサンチャゴ・デ・クーバなども揃う。
手前は浅草・創吉の社長製作の、日本にひとつしかないVegas Robainaの純金リング。


5年連続でシガーサービスコンクールに出るんですけれど、その1回目で僕は決勝まで残って6位になりました。3年目のバーテンダーが、負けたくない一心で(笑)。
でもね、やはりバーテンダーの経験が3年ではサービスに自信なかったんですよ。最後に壇上に上がってシガーに合わせるドリンクを作るサービス実技があったんですが、それは自信がなくて。
「シガーに合うドリンク」というものでしたが、プロのバーテンダーからしたら超ナンセンスな内容なんです。なぜかというと、主催しているのはお酒のプロではなくシガーの会社なので、壇上に並んでいるリキュールや材料が、これで何を作るの?っていうボトルばかり、本数も7・8本しかないんです。
「これをうまく組み合わせて作れ」というものでしたが、ようはそのボトルも、プロが選んだものではなく、お酒の素人が選んだもの……ジンとカンパリと、シガーだからナッツ系やチョコレート系のリキュールが少し、そして薬草系、みたいな。
ショートで作る実技なんですが、そのボトルのチョイスで、シガーにマリアージュするショートというのが、すごく作りづらいんですよ。
そういうのがあって、自信がなかったから……正直言うと、ブラインドは全問正解だったんですが、わざと間違えたんです(笑)。
決勝に残って、その実技を戦う自信がなかったから。もし負けたとき、格好悪いから、というのを考えてしまったんですよね。だからブラインドで間違えれば、決勝まで行っているので、格好はつく、と。
銀座池田の先輩たちは決勝まで残っていなかったし、僕は一番若くて決勝に残っているから、ここで負けても格好はつくな、と考えてそこでわざと手を抜いて負けました(笑)。

以降5回、連続でコンクールに出場するんですけれど、その次の年、2005年の決勝に僕は残れなかったんです。
間違いなく残るものだとばかり思っていたんですけれど、残れなくて。そのときの大会は、同じ銀座池田の先輩が優勝しました。
悔しかったですね。シガーでは僕が一番を走ってたはずなのに。
奮起して、2006年が準優勝です。その時も優勝したのが銀座池田の先輩。どれだけ池田がシガーに力を入れてたかということなんですけれど。全国から出場者が来てるのに、2年連続で優勝は銀座池田ですよ(笑)。

そして勝負の2007年。でもやっぱりね、3年連続優勝は銀座池田ってなると、ねえ(笑)。
シガーの大会というのは、ようはシガーの布教活動なんです。だから、よくないわけですよ。たまにはホテルに花を持たせたり、ようはちょっと政治力っていうのが利く。そういうものですよね。
僕は前年準優勝だから、優勝候補筆頭なわけです。
そのプレッシャーもありの、大会の方の軽いいじめに遭いの、でした(笑)。
科目の中に、7分間でお客様に合ったシガーを勧める、という試技があるんですけれど、経過6分の段階でチャイムを鳴らして教えてくれるというルールだったんです。
あくまでシガーを勧める流れを競う実技。僕は普段やっている営業と同じなので、気持ちよく話を進めました。「まだ時間はあるな」と思いましたが、あまり話を伸ばしても良くないし、チャイムがまだでしたがシガーに火をつけはじめたんです。
まだ1分以上残っていると頭の中にはあるわけです。そう思っていたら、突然「時間切れ」で試技が終わったんですよ。
僕はトップバッターでした。で、僕はそれで失格になったんです。それ以降の順番の試技には、チャイムが鳴っていました。

僕が所属する銀座池田のマダムが、審査員に凄い剣幕で食ってかかるわけですよ。
僕が負けてかわいそうというわけじゃなく、ようは僕はその頃すでにマネージャーをやっていたので、背負っている銀座池田の看板に、作為的に泥を塗られたって感覚がマダムにあったから物凄く怒ったんですね。
審査員は名だたる人たちですよ。その人たちを捕まえて、文句を言いまくるわけです(笑)。
僕はね、もうやめてほしかったんですけれど、最後にマダムが、コンクールの優勝披露パーティ会場を出るときに、だめ押しで会場に言い放ったんですよ。
「竹中、帰るわよ!来年はあなた、圧倒的な力の差をもって勝ちなさい!」
いやあ僕ね、1年間どうしようか悩みましたよ(笑)。

色々あって翌2008年、会場が帝国ホテルの年に僕は優勝しました。最も嬉しかったのは、開催場所の帝国ホテルのバーテンダーを抑えての優勝だったことです。
「圧倒的な力の差をもって勝ちなさい」って言われてましたし、優勝した年は僕はたったひとりしかいなかった満点でした(笑)。

 

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優勝時の特集記事。2009年のHUMIDOR誌より。

コンクールは予選で上位トップ5人が抜けるんです。以前は10人とかだったんですけれど、大会の時間の短縮などで、ブラインドも昔は5本だったんですがひとり1本ずつになっていました。答えるのは国・ブランド・シリーズですが、あの大会の時も、全部当たったのは僕だけ。ドミニカ、アシュトン、VSGでしたがそれが全部分かったのが僕だけでした。
続いて、前年苦汁を飲んだ試技はまた僕が一番最初でした。
滞りなく進行して、自分の試技が終わったあと、残り4人のプレイを見学していました。参考にされてしまうので、出る前に人の試技を見るのはNGでしたからね。
それで他のプレイを「自分よりあそこが優れてるな、ここは自分の方がいいな」なんて思いながら見ていたんですが、「おっ」と思ったのは開催場所の帝国ホテルのバーテンダーの方で、「自分はこの人に勝ってるのか?」とかなり不安になりました。全員分見て、僕は入賞は確実だと思いましたが、帝国ホテルのバーテンダー様以上に出来たかが不安だった。

プログラムが終わり、受賞者は3位から呼ばれます。
3位、帝国ホテルのバーテンダー様も僕も呼ばれない。そうしたら僕は2位なのか1位なのか。頭の中はそれだけでした。
続いて2位が呼ばれる時になり……待っているわけですよ。結果発表がそのままパーティなので、みんなシガーをパカパカ吸いながら発表を見ているんですけれど、僕はもう圧倒的力の差を見せて勝たないと、マダムに何を言われるか分かったもんじゃないですから、とんでもないプレッシャーです(笑)。
そして2位が呼ばれる。発表は所属から呼ばれます。僕はそのときハートマングループに移籍していたから、僕が呼ばれるとしたら「株式会社ハートマン、ザ・ライオンズ・デン、竹中光毅」と呼ばれるわけです。
2位に呼ばれたのは「帝国ホテル」。その瞬間、ガッツポーズしてしまいました(笑)。
今考えれば、入賞もしてなかったら何のガッツポーズだったんだっていう話で震えるけれど、あの時はもう勝ったと思ったんです。そして、1位は僕でした。本当に、あんなところでガッツポーズして、相撲だったら怒られるよ?って(笑)。
面白かったのは、その1週間後くらいに、たまたま日経新聞の記者の方をお店で接客したんです。その人が、日経新聞夕刊の「仕事人」っていうコラムを書いていた人だったんです。
紙面一面使うくらいのコラムなんですけれど、それに掲載されました。
僕の前が宇宙飛行士の毛利さんで、僕の後がノーベル賞を受賞した方でした。その二名を並べるわけにいかなかったので、間にちょうどいい箸休め的に(笑)。
日経新聞から取材を受ける電話をもらったとき、ドッキリだと思いましたね。天下の日経新聞が僕に何の用事があるんだと(笑)。
……長くなりましたが、これが僕のシガーを初めて手に取ってからの流れです。
ほぼ成人すると同時に、シガーとともに社会人生活が始まったので、僕はシガーのない生活というものがわかりません。
これが仕事ですし、全てがシガーなくしては始まらない人生を送っています。


愛するシガーはH.Upmann
 

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今回吸ってもらったのはH.アップマン サーウィンストン ‘01。氏の最も愛するシガーだ。

一番好きなシガーはアップマンです。僕は自分の好みは明確に順位付けしているので、一位はアップマンです。
味も好みですが、やっぱりストーリー性ですかね。どちらかというと、嗜好ではミディアム系のシガーが好きなんです。ヘビー級のコイーバより、ライト系のオヨ・デ・モントレイより、真ん中を行くアップマン。他に好きなのはパルタガス、サン・ルイ・レイ、ララナーガ、昔のベゲロス。ちょっと重たくなるものでもべガス・ロバイナですね。
ヘビー級のシガーは、本数が吸えないのであまり手が出ません。たとえばベイーケを一本吸ったら、結構きますよね。トリニダもそうです。最近のものですと、ヴィフィアも美味しいですが、チェーンスモークするには向いていないと思うんですよね。だから僕はアップマンです。
コンクールに出場するにも、ひとつひとつのシガーのストーリーを勉強するじゃないですか。その中で知ったケネディの逸話も好きだし、僕はもともとドイツが好きだから「ヘルマン・アップマン」という名前も好きなんですよね。キューバだと「アチェ・ウプマン」になりますが(笑)。
アップマンのペティコロナやコネスールNo.1を、修行中ずっと吸っていました。当時は値段的にも優しく、1600円あたりのレンジだったと思います。だから僕が吸うのに適していたんです。
初めて見に行ったシガー工場がアップマンだったというのもありますね。あのピンク色の建物、行ったのがちょうどアップマン150周年の時でしたし、そういう色々なものが残るんです。
それでずっとアップマンが好きですね。シャンパンでボランジェが好きなのと同じように、手が出るのはやはりアップマン。当時は、こんなリングに変わるなんて思ってもみなかったですけれどね(笑)。


シガーを吸うのに、一番好きな場所は?

(間髪入れずに)キューバですね。
どこで吸うのが好きといったら、当然ハバナです。一番好きなのはシガーショップ、コンデ・デ・ヴィジャヌエバです。そう言えるくらい、年間で行っていますからね。僕のように飲食業をやっていて、僕以上にキューバに行っている人はいないと思います。
このハバナベガスという店は、僕が一番好きなキューバの空間に出来るだけ近づけるために、キューバのバーを模して作っています。
だからカウンターも石で作ったし、テーブルも石です。ソファだけはキューバのものだと色々難があるので、チェスターフィールドを入れました。
水槽を入れているのも、自分の趣味でもありますが、これもこだわりと理由があるんです。
当たり前ですが、日本はキューバと違って湿度が低いですから、シガーを吸っている最中からシガーが乾燥してくるんですよね。加湿器も2台入れていますが、さらにこの大きな水槽を置いておけば蒸発して空間が潤う。大掛かりな加湿なんです。
だからうちの店は、どこのシガーバーよりバーとしての空間の湿度が高いと思うんですよ。意識しているんです。

 

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キューバをそのまま日本に持ってきたようなハバナベガスの店内。

マデューロ5とフィデル・カストロ

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シガーについての思い出深い出来事は……たくさんありますが、一番といったらやはり最初にキューバ行ったことだと思います。
初めて吸ったシガーは覚えていないですからね。一番忙しくて、ぜんぜん寝かせてもらえなかった時期ですし、どれが最初でどうだったかなんて、もうわからない。
コンクール優勝までは、06年準優勝、07年失格、08年優勝という面白い流れでした。キューバに行ったのは、準優勝したときに、会社の出張で行ったのが初めてです。
その年は優勝した人も同じ会社の先輩だから、その人がキューバに行くべきだったんですが、大会優勝の副賞がドミニカへのシガー旅行だったんですよね。僕は準優勝でヒュミドールを賞品にもらったんですけれど、「じゃあ銀座池田恒例のシガー仕入れのキューバ行きは竹中が行きなさい」と言われまして。
その行った年のニューリリースで発表されたハバノスのシガーは、確かコイーバ マデューロ5だったと思います。
思い出深いのは、そのマデューロ5が発表されたハバノス・フェスのガラディナーに、フィデル・カストロが現れたことです。
ガラでシガーオークションを初めて見たときです。どんどん入札が重なって、5千万円だ7千万円だ、1億に行くのか?というトリのオークションで、競り落とされた品の目録を持ってフィデルが出てきたんですよ。そのとき、生でフィデルを見ました。
それ以降は身体を壊してフェスに登場しなくなったので、今考えれば最初で最後でしたね。
そのとき発表されたマデューロ5を吸いながら、ガラディナー会場でフィデル・カストロを見たことが、僕にとっての一番の思い出ですかね。


そして、これから​

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僕にとってシガーは、人生です。
生活の一部、いや生活そのものです。
シガーなくして僕は家族を養う事もできませんし、ご飯も食べられませんし、シガーがなくなったら……重たいけれど、人生ですよね。
よくフェイスブックに書くんですけれど、「葉巻こそ我が人生」なりを地でいってます。シガーで生きていくためにどうしたらいいかを考えた、銀座で過ごした15年間でしたから。
そして辿り着いた今は、初期段階。この先の展開というのを考えてはいますが、今現状では僕が思い描いた事はできているんじゃないかな、と思います。
よりキューバらしさを西麻布打ち出し、もっともっと、シガーを吸う人を増やしたいですね。

 

竹中 光毅(たけなか こうき)

1979年、岐阜県生まれ。
銀座の老舗バー「池田」を経て2015年まで銀座の名店「ザ・ライオンズ・デン」にてNo.1バーテンダーとして活躍。
のち独立し、シガーとキューバ文化を広めるため2015年に西麻布に会員制バー「ハバナベガス」をオープン。
2008年のシガーサービスコンクールで優勝した、日本一のシガー エン コンセイエ。


 

ハバナベガス

西麻布の一角にひっそりと建つシガーバー。

建物全てがバーであり、一階はキューバのモヒートの名店「ボデギータ・デル・メディオ」をイメージしたカジュアルなスタンディングバー。二階は会員専用のシガーバーで、ハバナのホテルバーをイメージして作られている。

葉巻のソムリエ「シガーコンセイユ」日本一となったオーナーバーテンダーがキューバから買い付けた葉巻が提供される。事前に御予約されることをお薦めいたします。

 

 

 

Text by Tatsuya Igarashi:Twitter FaceBook